第1章 第十七話
🕑 Added 2025-05-30 01:28:09 +0000 UTC
【それでも世界は回っている -OZ-】
第1章「目覚めの草原」
第17話「クロネの村へ」
【前半】
──丘を越えると、景色が変わった。
遠くに、わずかに立ち上る煙が見えた。
茂みに覆われた谷の間に、石積みの小さな屋根がいくつか並んでいる。
「……あれが、クロネの村?」
「せや。変わっとらん……わいが見た時と同じ姿や」
ラセルの目が懐かしそうに細められた。
彼はこの村を何度か訪れたことがあるらしい。
「昔はもうちょっと賑わってた。
でも今は、風の影響でだいぶ人が離れたって聞いとる」
ドロシーは、遠ざかっていく草原を振り返った。
風は穏やかだった。名前を吹き消すような風は、ここまで届いていない。
小さな川を渡り、谷の入り口までたどり着いたとき、
ひとりの獣人がこちらに気づいた。
「──あら? ラセルさんじゃないですかい」
猫のような耳と尾を持つ、老いた雌の獣人。
手には干した野草の束を抱えている。
「クロ婆。まだ元気そうでなによりや」
ラセルが帽子を取って笑うと、婆は目を細めて頷いた。
「そちらの子は?」
「旅の連れや。名は──」
「ドロシーです」
ドロシーが名乗ると、婆の目が一瞬だけ揺れた。
「……名乗れるのかい。珍しいねぇ、最近は名のない子ばかりでね……」
「……?」
婆はすぐに笑ってごまかした。
「まぁまぁ、立ち話もなんだし、あたしんとこ寄ってきな。
薬湯くらいは出せるよ。手も、具合が悪そうだしねぇ」
右手を見て、ラセルが少し眉をひそめたが何も言わなかった。
ふたりはクロ婆の案内で村の中へと進んだ。
道の両脇には、人の気配がほとんどない。
家の戸は閉じられ、庭先には干からびた花や崩れかけた棚が残されていた。
「昔はこの村、風の記録をつける役目を担ってたのさ。
“名前と風”の関係を記した古帳もあったっけね」
「残ってますか?」
ドロシーが尋ねると、婆は肩をすくめた。
「さぁね。古い倉にしまってあるけど、今じゃ誰も開けとらん。
カビ臭くて、虫が出るしさ」
その倉というのは、村の北端、断崖近くにあるらしい。
今日はもう遅いので、明日案内してくれるということになった。
クロ婆の家は、瓦屋根の小さな一軒家だった。
木の床はきしんでいたが、清潔に保たれていた。
「さ、座ってな。あんたには薬湯を、そっちの子には、少し薄めたのを出すよ」
そう言って婆が立ち去ると、ドロシーは静かにラセルを見た。
「……この村、なんだか、少しだけ……怖いね」
「うん。風がない代わりに、時間が止まっとる感じがする」
ラセルの声もまた、どこか慎重だった。
そして、ふたりは、明日を静かに迎える準備を始めた。
【後半】
──クロネの村の夜は、息をひそめたように静かだった。
クロ婆の家から見える通りは狭く、石畳も土に沈みかけている。
ところどころ、誰かが掃いた痕跡はあるが、人の姿はほとんど見えない。
木造の家々は皆、低くて古い。屋根には苔が生え、土壁には細い亀裂が走る。
それでも、崩れずに立っているのは、誰かが手入れを続けてきた証だった。
──この村は、生きている。けれど、息を潜めている。
薬湯を飲み終えたドロシーは、縁側に出て夜風に当たっていた。
風はここまで届かず、空気は重たいほどに静かだった。
すると、背後から足音。
振り向くと、若い雌の獣人がひょこりと顔を覗かせた。
「ごめんなさい、おじゃまして……新しいお客さんって聞いて」
彼女はキツネ獣人で、まだ十代後半くらいに見える。
淡い茶色の毛並みに、尻尾の先が白く光っていた。
「あなた、名前……あるのね?」
「え?」
「……村の子たちのほとんどは、もう名前を忘れてるの。
“風のこと”があってから、こっちでもどんどん記録が消えてって」
「……君は?」
「わたしはまだ、ミユって覚えてる。忘れないように、毎晩声に出してるの」
笑いながらそう言うミユの顔は、どこか寂しげだった。
「お屋敷の近くにある“名前の倉庫”、明日行くの?」
「うん……婆さんが案内してくれるって」
ミユはしばらく黙っていたが、ぽつりとつぶやいた。
「……気をつけて。あそこ、今は“誰も開けちゃいけない場所”って言われてる」
「どうして?」
「……入った人が、名前を……急に、思い出せなくなったって話があるの。
ひとりはそれ以来、ずっと寝たきり。声も出せなくなっちゃって……」
そのとき、村の奥から低い叫び声が上がった。
「──またかっ!? あの家から煙が──!」
ミユがはっとして振り返る。
「……エンじいの家だ! ドロシー、来て!」
ラセルがすぐに現れた。
「なんや、騒ぎか? ドロシーちゃん、足元気ぃつけて!」
ふたりは走った。
細い路地を抜け、竹垣を越えた先に──
火のように立ち上る白煙と、倒れた老獣人の姿。
「エンじいっ!」
ミユが駆け寄る。
その先にいたのは、ワシミミズク獣人の老人。
白く濁った目で何かを訴えようとしながら、口を震わせていた。
「……名前が……消える……また……風が、戻ってくる……」
ドロシーが近づこうとしたとき、突風のような空気が村の一角を揺らした。
──風が、吹いたのだ。
誰もが動きを止める中、ラセルだけが前へ出て、地面を押さえるように手を広げた。
「土の……流れが乱れとる。これは、自然の風やない」
その言葉と同時に、エンじいの目がかっと開いた。
「──やつが……まだ、この村に……“風の魔導師”が……!」
その言葉を最後に、老人は気を失った。
静まり返る夜のなか、焚き火のように明滅する火種が──
ドロシーの胸の中で、赤く、熱を持って揺れていた。
──風は、まだ止んでなどいない。
そしてその“気配”は、すぐそこまで来ていた。
《第17話・完》