歪んだ私の行く末は(その1)
🕑 Added 2024-01-03 06:41:02 +0000 UTC
【2023年8月22日】
20代も中間に差し迫ろうという頃、新卒から漫然と続けてきた今の仕事に見切りを付けて、独立開業を見込める士業に目を向けてから早2年。
俺、高里和樹が目指した士業に必要な国家資格の取得はとんでもなく大変なもので、仕事の傍ら勉学に励む毎日は、中々にしんどいものだった。
ともあれ前述にある過去形の通り、俺は無事今年の試験に合格し、晴れて業界への第一歩を踏み出そうとしていたところだった。
「資格を取ったからには即独立」
……とはならなかった。業界に関しての見識も実務経験もない若手の俺は、まずは修行ということで未経験者歓迎の求人を出していた事務所への転職を決めた。
給料がよく、勤務時間も短い等、カタログスペックはかなりよく、ここまで好待遇であれば他年リスクを冒して独立する選択肢すらなくなってくるのではないだろうかとさえ思える条件だった。
さっそく採用面接へと臨み、無事にオファーも通った。初出社からの一日を終えて、それからあっという間に一週間が過ぎ去っていった。
(所長は頼りになるし、同僚のみんなも優しい)
同い年の男子社員、大島雅人。
明るい好青年といった第一印象で、仕事の手際もかなりいい。
この事務所の社員構成は男女別にすると男が俺を含めて2人、女が6人となっている。なんとも居心地が悪そうなものだが、図太いこの男はどうやら特に気にしていないらしい。
二歳年下の女子社員、栗原智咲。
平均年齢が40を超えるの弊所では最も若い所員にあたる。
彼女は物腰の低さもあってか所員のおばさんたちともよく打ち解けている様子だ。ところどころ男らしい一面を見せるが、本人曰く昔はやんちゃ小僧だったのだと気恥ずかしそうにはぐらかす彼女に、俺は妙な親近感を覚えた。
一週間で特に仲良くなった同僚はこのふたりだった。若い者同士、気心が知れるといったところか。ともあれ、人間関係には悩まなくて済みそうで一安心である。
大きな事務所ではないが、俺みたいな普通の人間にとっては身に余る地位だ。
これはなおさら気合を入れて働いていかねばと、そう思いながら就寝した日曜日の夜を、俺はよく覚えている。
月曜日の朝。セットしていたアラームが鳴り響き、俺の意識を覚醒させた。
(さて、今日も一日頑張るか)
上体を起こし、何の気なしに時計へと目を向けて、気づいた。
(……ん?まだ6時?)
始業時間は朝の9時だ。家から職場までの通勤時間は片道30分程度。食事を取って身支度を済ませるのに1時間と考えたら、家を出るまでに1時間半も有り余る。
(設定を間違えたか?)
しかし記憶の通りだとこのアラームは先週、問題なく7時過ぎに鳴っていたはず。そして保存した設定を俺は一切いじってもいない。
一人暮らしをしているため、他の誰かが勝手にこれを拝借したという線もないだろう。
(……っていうより、そもそもこの部屋、なにか違和感が……)
アラームのことはいったん置いて、俺は馴染みの自室へと目を向けた。
そこは俺が昨日まで生活していた居住環境に違いなく、ただそれにしては、なにかと部屋模様が異なっている。
と、周囲を見回すために首を大きく横に振ったその瞬間、
「……え?」
ふぁさり、とでも言い表せば適切な擬音だったろうか。それは俺の頭部から繰り出された。
首元をくすぐる無数の糸らしきものを知覚して、同時に視界を薄く遮る存在の正体に俺は遅れて気が付いた。
それは、髪の毛だった。昨日までの俺ではありえない長さにまで伸びた、黒く艶のある綺麗な髪の毛だった。
「……なん、だよ……」
いつの間にか身に着けていたフェミニンな寝間着。その胸部には、こんもりとした双丘が見られる。本来俺にあってはならないもののはずで、けれど明らかにそれらは現実に象られていて、覆い被さる衣服を盛り上げることで自らの存在を高らかと主張していた。
「……」
手のひらで撫でればぞわりと神経が警鐘を鳴らす。手のひらで掴めばふにゅんと沈み込むまさしく乳房そのものの反応を返した。そして、あろうことか俺の脳は胸部から発せられるその受動的な刺激を感じ取ることができてしまっている。
それはすなわち、これらが俺の持ち合わせる人体の一部なのだということを意味していて。
「こ、これじゃあまるで……」
眠気はすっかり鳴りを潜めて、今はただ焦燥と恐怖とが俺の心を支配していた。
一刻も早く確認しなければならない箇所があった。けれど最悪の状況を確定させてしまうことに対する忌避の思いが、目的地に至ろうとする指先の歩みを鈍らせる。
「……」
おそるおそる。
ぴっちりと肌に張り付いた下着。表面に触れてみても、隆起している様子がまったく感じ取れない。
右手を潜りこませて、あるべきはずの突起物に触れようと試みる。
そして、想像の通りに……俺の右手は空を切った。随分と様変わりした質感の下着が、ただ鬱陶しくまとわりついてくるのみ。
男としての象徴は霧散し、どころか代わりのつもりかは知らないが、そこには役割を対にした一筋の溝が形成され、俺の身体の一部として当たり前のように居ついていた。
「そ、そんな……」
身に覚えがない女子らしさのある家具雑貨に囲まれて、姿見の前で立ち尽くすその人間を前に、彼女を男であると、高里武弘であると認識する者は、きっとこの世界に存在しないだろう。
なんせ自分自身でさえ、それは困難に思えてならないのだから。
「俺、女になってる……?」
身辺の確認を終えてみても、やはり先ほどの結論は覆らなかった。
今の俺は生まれた時から女性だったらしく、高里和樹ではなく“高里萌香”という名前にされているらしい。身分証に記された性別は当然のように“女”となっていて、社員証に至っては顔に化粧を施し、レディーススーツまで着こなす無表情な自分の写真が貼り付けられていた。
例えばスマホで撮影した画像を掘り起こしてみても、そこに写る俺は高里萌香をしていて、被写体の趣味嗜好もどことなく女性に寄った傾向が見て取れた。卒業アルバムにしても、やはり俺は女子生徒として学生時代を過ごしていたことになっているらしかった。
写真越しに彼女の姿を目にする度に、どことなく男だった俺の面影を感じる…というより、母親がその当時の年齢であればこんなだったかもしれないと思わせる顔立ちをしていて、それがなんとも薄気味悪い。
まるで性別だけが異なるパラレルワールドに送り込まれでもしたかのようで、あるいはこれはまだ夢の世界なのだと言われたほうがよっぽど得心がいくほどだった。ところが頬を叩けば乾いた快音とともに、じんわりとした痛みを覚える。この感覚を信用するよりも安くない出来事が、今俺の身に起きているというのに。
さて、自分の置かれた状況は把握した。二日酔いのほうがマシなほど気分はぐったりとしているが、弱音を吐いている余裕はあまりない。
というのも、仕事だ。
こんな異常事態を前に仕事の心配をするなんて、絶対にありえないことだと思う。まだ病院に駆け込んで染色体か、もしくは脳の検査でも進めたほうが常識的なものだろう。
ところが俺は念願叶ってようやく士業世界への第一歩を踏み込んだ身。それも身に余る好待遇をしてくれる事務所に雇ってもらえたばかりの状態。
今の自分は試用段階の立場。マナーや身嗜みが悪かったり欠勤が目立つようであれば、採用はなかったことにされてしまうかもしれない。
「くっそ、なんで俺がこんなことを……」
限られた時間の中、大急ぎで化粧の基本だけ調べ上げ、それを自らに施していく。
まったく知識も経験もない俺が、一応それなりに整った成果に仕上げることができたのは、体がそれを覚えてでもいたからか、あるいは不格好ですら好感を持たれそうなこの柔和な顔立ちの副産物か。
入念に髪を梳かせば、見苦しさのないショートボブが出来上がった。最後に淡い桃色の口紅を塗り付け、一度きゅっと唇を引き結ぶ。
着替えを済ませて、これで身嗜みはどこにでもいるOLのそれと大差ないはず。
「……」
にもかかわらず、高里萌香のその端麗な容姿は俺の望んだ普通とは一線を画した女性としての魅力を湛えていた。
端正な小顔は仄かに化粧っ気を感じさせながらも素材の良さをありありと見せつけてくる。
ぱっちりとした愛らしい目はやや垂れ目がちで、自然と愛嬌を振りまく。
眉は至って自然体で、しかし柔らかに弧を描く弓形のそれは女性らしさを引き立てていて。
鼻筋はよく通っていて、確かな存在感と、けれど他の要素を決して邪魔しない黄金比を思わせてくる。
髭の剃り跡ひとつない、しっとりした質感の色白な肌。そんな一面に浮かぶ桜色の唇は瑞々しく華やかで、見る者を惹きつける魅惑を醸す。
前髪は社会人らしく眉に掛からない程度に、自然な流し方で落ち着いていて。さらりとなびいた後ろ髪は女性としての自覚を否が応でも突き付けてくる。
ジャケット越しからでも見て分かる華奢な体格は、いかにも女性らしくて心許ない。
不存在のネクタイ。かわりに胸部で強調されるのは、大きく膨らんだふたつの乳房。
タイトスカートは外気をそのまま股間の目前にまで素通りさせ、履き慣れない着衣者に羞恥を与える。狭い筒状のそれは太ももの自由を阻害し、かくあるべしとばかりに小股での歩行を強制させる。
そんなタイトスカートからすらりと伸びる透明感ある肌をした両脚は半ばにしていよいよ衆目へと晒され、しかしそれらはむしろ主の女性としての魅力に大きく貢献する美脚をしていて。
「……はぁ」
これが今の自分なのだと、そう思い込ませてくる姿見が忌々しくて仕方ない。
「それでも、我慢するしかない……」
ここがパラレルワールドであれば、いっそどれほどよかったことだろう。元の世界に戻れたら、今ここに立つ高里萌香として取った行動は一切自分と無関係になるのだから。
けれどもし、この超常現象が収まったとき、元に戻るのが俺の性別だけで、経過した時間…すなわち、俺が高里萌香として取った行動のすべてがそのまま反映された世界に行き着くのであれば、この世界でも俺は相当とされる自分を演じ続けなければならない。
「俺の積み上げてきた人生は、性別ひとつで投げやりになれるほど軽いものじゃない」
元に戻れる見込みはない。
しかし、時間が解決してくれるかもしれない。もしかしたら誰かが高里和樹のことを覚えているかもしれない。
いずれにせよ、悲観するとせざるとに関わらず、社会人である俺は、これから女子社員として、この歪んだ世界を相応に生き抜いていかなければならないのだ。でなければ、野垂れ死んでしまうからだ。
玄関を出て、最寄り駅へと向かう。
地面を打ち鳴り響くヒールの足音が小気味よく、それが一層俺の神経を逆撫でた。
×××
【2023年8月29日】
「お、おはようございます……」
何の変哲もない至って普通の朝の挨拶。ただ、まるで女装でもしながら職場に訪れたような心境と、聞き慣れない高く明るいソプラノの声が自らの口から発せられているというこの状況が、俺に小さくない緊張感をもたらした。
「あ、高里さん。おはようございます」
「……」
「?どうかしました?」
「……あー、栗原さん。今日のお…私、変なところとかない?」
顔色を窺う俺に対して、栗原は首を傾げながらこう言った。
「?別にいつもどおりの高里さんじゃないですか?」
開口一番に「誰ですかあなたは」とならなかった時点で、まあこうなることは分かっていた。やはり他人の認識でも、俺は元から女性だということになっている。
「あ、でもお化粧が少し雑、でしょうか?ふふっ、高里さんってそういうところはきっちりされてる方だと思ってました」
栗原の軽口には寝坊したのだとはぐらかし、そして自分の席に着く。
「……」
化粧も、伸びた髪の毛も、着込んだレディースのスーツも、栗原から見る俺にとってはどれも当たり前のもので。
「……」
栗原との会話。先週の時点では、男である俺との身長差から彼女は俺を軽く見上げていたはずだった。
今、俺と彼女とはさして変わらない背丈で、さして変わらない体型をしていた。いずれも、模範的な女性のそれが近い。
物理的に同じ目線で行われた先ほどまでのやりとりが、男としての自意識を傷つける。
「……あ」
変容した骨盤の影響か、気づけば俺は、内股気味の座り方をしていた。タイトスカートから露出される細く形のいい両脚が、自分の意思で自在に動かせるこの状態にもかかわらず。
「はぁ……」
今の俺には、苛立ちを溜息で誤魔化す他はなかった。
×××
【2023年9月1日】
仕事自体は性別に関係なく、滞りなく進んでいった。休憩時間に女性グループの中で談笑していた際にいくらかぎこちない面が見え隠れしたかもしれないが、仮にそれを訝しまれたところで「あなたは女性としての雑談が出来ないから試用期間で打ち切り!」なんて横暴はさすがに通らないだろう。
「そういえば、新しく入った高里さんも女の子だから、大島くんはますます肩身が狭くなるわね」
所長が何気なくそう呟いた。士業世界の男女比率がどの程度かは正確に把握していないが、資格者に限って言えば男性の割合が多かったはずだ。俺が女性をしている今、この事務所内に男は大島ただひとり。いくらなんでも偏りすぎているだろう。
「ええ。素敵な女性たちに囲まれて、僕は幸せ者ですよ」
爽やかにそう言ってのける大島は、やはり大人物に違いない。
ふと、大島がこちらに目線を向けてきた。自然、目が合う。
「……高里さんも、楽しみにしているよ」
不意に見せたその表情。どこか含みのある台詞。
その真意を知ることになるのは、もう少し先の話だった。
×××
【2024年2月26日】
「ふぁ……」
カーテンの隙間から漏れ入る朝日を身に受けて、俺はのっそりと上体を起こした。朝は毎日同じ時間に起床しているため、最近ではアラームの助けもいらなくなってきていた。
「今日はまた、一段と寒いなぁ」
暖房を付け、コーンスープでも飲もうとヤカンに水を入れていく。
沸騰するまでの間、髪の毛に櫛を通して寝癖だけ直しておく。それから朝食のパンを温めて、椅子に座った。
「……へぇ、事務所の近くじゃん」
ぼんやりとテレビを眺めていたところ、気になるネタが流れてきた。女性の間で話題の洋服店が仕事場の最寄り駅に近日移転されるらしい。
せっかくだしそのうち栗原と行ってみようかなどと考えながら、俺はスープを飲み干した。
「うひぃ……」
自身の体温に温められた寝間着を脱ぎ去ると、当然冷え込んだ室内の洗礼を浴びることになる。とはいえ、そのままの姿で出社するわけにはいかない。
肌着が長い後ろ髪を大きく巻き込む。服を脱ぎ切ればそれらはふぁさりと重力に従って落ち着いた。
ナイトブラを普通のと付け替え、それから急いでキャミソールを身に着ける。寒さ的な意味で、日常生活において最も峠なこの一瞬を乗り越えたことで、俺は内心ひとり勝ち誇った。
次はお化粧。
まずは薄めの化粧下地、それからファンデーションを塗りこんでいく。ぽつりとニキビが浮かんでいたので、コンシーラーで誤魔化しておく。
眉毛は毛流れを整えておけば、特に問題はなさそうだ。
アイシャドウはブラウンの落ち着いたものを選ぶ。
チークも20代女子であればごく自然なものをほんのりと被せるだけ。勤務にあたって下手にあれこれと施してやる必要はまったくない。むしろ素材を生かすべきだと栗原に熱弁されたことがあるのだ。
最後にリップメイク。化粧全体の印象が噛み合う色合いを選択し、塗り付ける。さらにちょっとしたお洒落のためグロスを重ねて艶を増してやれば模範的な女性社会人の出来上がり。
ブラウスに袖を通して、ストッキングを履き、タイトスカートを腰部で留め、ジャケットを着る。ボタンを留めて、最後に腕時計を付けて左手首の内側に向かせれば身支度は完了だ。
「ふう」
肩まで伸びた黒髪は余念のないケアの賜物か、部屋の明かりを照り返すほどに艶やかで、質感もまた絹糸のようにさらさらとしていて妙な誇らしさを感じさせる。ここまでするつもりなんて自分にはまったくなかったが、無知ゆえに説明書き通りのケアをそのまま続けていたら、自然とこうなっていた。
衣服やメイクにおかしなところがないか、洗面台の前で身をよじるなどして確認する。俺の身じろぎひとつで軽やかに揺蕩う黒髪は華やかで、けれどいくらか鬱陶しいので後ろで一つ束に纏めた。ポニーテールに整えてやると、見せびらかしでもするかのようにうなじが顔を覗かせてきた。まあ、だからなんだといった話だけれど。
「切るか伸ばすか、どうしようかな」
俺はそう呟きながら、玄関のドアを開いた。
「あ、萌香さん。おはようございます」
「おはよ、智咲ちゃん」
同僚の人たちと挨拶を済ませながら、俺は自分の席に着いた。
「そういえば、高里さんがこの事務所に来てからもう半年になるのね」
所長はそんなことを口にした。
「そういえばそのくらいですね」
思えば経験のない事務所での仕事に謎の女体化と、初めのうちはどうなることかと思っていたものだけれど、慣れというものは恐ろしい。
仕事も順調に覚えていき、今ではすっかりこの事務所の女子社員として馴染むことができている。
「──はい。○○事務所です……お世話になっております。はい、その件でしたら私が担当になりますので、お伺いいたします」
今日も真面目に業務をこなして。
「あれ、萌香さん今日もスカートなんですか?だいぶ寒くないです?」
「そうなの。ストッキングは履いてるけど……やっぱりスラックスを買うべきかもね」
普段使いのあれこれを検討してみたり。
「ごめんなさい。私の不注意で、萌香さんまでずぶ濡れに……」
「いいってば。それより更衣室で濡らした服を脱いだまではいいけど、着替えはどうしよっか……」
「あ、それなら所長が買いに行ってくれてますよ。萌香さんがいっつもスーツしか着てこないものですから、『これを機にあれこれ着せてみて、お洒落に目覚めてもらわないと』なんて張り切ってました」
「わ、私の災難はまだ続いてるんだね……」
アクシデントに巻き込まれたりしながらも。
「──ふふっ。前々から高里さんには可愛い系がピッタリだって思ってたのよ」
「えー……所長、私はそういうのよりはフォーマルなタイプが……これは智咲ちゃんに着てもらおうかな」
「可能性を広げるのも大事ですよ、萌香さん」
ちょっとした雑談に花を咲かせて。
「お先に失礼しまーす」
今日もまた、いつもどおりの一日が過ぎ去ろうとしていた。
──────
「あ、そういえば明日って萌香さんのお誕生日ですよね」
「あら、そうだったかしら。だったらケーキのひとつでも買っておいてあげましょうかね」
「……」
「?大島さん?どうかしました?」
「──いや、なんでもないよ栗原さん。そうだね、明日が高里さんにとって最高の誕生日になってくれたらいいね」
──────
帰宅したら、まずは買い物袋から食品を取り出して冷蔵庫に詰め込んでいく。
それからベランダにある洗濯物を片付けていき、丁寧に折りたたむ。
「……結局これ、効き目ってあるのかなぁ」
手にした衣類のいくつかを前にして、俺はふと呟いた。
それは男物のトランクスとTシャツだった。
「女の一人暮らしだからって、お母さんに無理やりぶら下げさせられてるけど……人様の洗濯物をチェックするくらい気持ちの悪い人がいたとして、俺が一人暮らしをしているかどうかなんて簡単に見破られちゃいそうなもんだけどなぁ」
なんて益体もないことを思いながら、俺はなんとなくそれらを身に着けてみようと考えた。
「どうせお風呂に入るわけだしね」
誰に聞かせるでもない独り言を呟きながら、スーツをハンガーに掛けて、ブラウスのボタンを外していく。タイトスカートとストッキングを脱いでからブラジャーのホックをほどき、そしてショーツを下ろせば身に纏うものひとつない、自分の裸体が現れる。
いくらかのあどけなさを含ませた童顔寄りの端正な顔つき。目鼻立ちにいたっても、女性らしさが色濃く反映されている。
凹凸の弱い細首に喉仏は見当たらず、撫で肩を伝うすっかりロングに近づいたきめ細やかな黒髪は俺の身じろぎひとつで揺れ動き、さらさらと素肌を撫でくすぐる。
鍛え上げられた体育会系の体つきも今や見る影なく、ふにふにと脆弱ぶりを隠しもしない細腕は起伏に大人しい。
しなやかな印象を与えるほっそりとした手指。行き届いたスキンケアの賜物か、透き通るような色白の素肌が美しく見える。
身に宿すべき赤子を想って大きく実るふたつの乳房はブラジャーの庇護から解放されると、たゆんとありのままの性状を露呈させた。女性にしか持ち得ない柔らかく瑞々しいその膨らみに、縁取られた桜色の乳輪とその中心に佇むぽつんと浮いて立つ乳首が彩りを加える。
スタイルを見せつけるかのようにはっきりとした曲線を描くくびれ。横に広がった骨盤。
そこから伸びる太ももは程よく肉付き、けれど細身な女体の印象に反しない造形美を成立させている。すらりとしたふくらはぎから足首、さらには足元に至るまでのすべてが、それを美脚と称させることで協調しているようだった。
そして、それらすべての元凶となる、自らの性的役割を決定づけるひとつの器官。今もこの体の股間部に我が物顔で根付いている。ひとたびこれが己の本懐を望んでしまえば、男としての理性や自己同一性など意にも介さず、俺にただひとりの”女”であることを強要してくる。
──終わりの見えない女体化生活の中、今でも時折り湧き出る性欲を我慢し続けているのは、これの本能に迎合したら自分を男と思えなくなるのではないか……そんな漠然とした恐怖があるからだ。
「……?」
改めて自分の身体をしげしげと見つめて、ふと気づいた。
以前の自分だったら、姿見に映る自分を見て、性的に興奮していたに違いないはず。
……。
(まあ、いくら女の裸っていっても見慣れた自分には興奮できなくもなるか)
どこか引っかかる気づきに、しかし俺は適当な理屈で蓋をした。
(栗原の裸とか見れたら、普通に興奮しちゃうんだろうけど)
無論、俺は今の社会的な立場を悪用して私欲を満たそうとは思わない。栗原とは日頃同じ職場にいるため、偶然女子トイレで居合わせることなんかはあるけど、そういう時もなにも意識しないようにしている。
朝の満員電車でだって、女性専用車両を利用したことは一度もない。その辺は元男として弁えているつもりだ。
試しに彼女の裸体を、そして男の自分が彼女と致す情事を想像してみる。
「……あれ?」
下腹部は、疼かなかった。
「……まあ、そんなもんでしょ」
女性の身体は男のものと比べてすぐには興奮できない。そういう話を聞いたことがある。だから別に、なにも気にすることはないだろう。
俺はおもむろに男物のTシャツを被った。以前の自分が着ていたものとまったく同じサイズなはずだけど、細身で華奢な今の身体だとぶかぶかしていて格好が悪い。そのわりに胸だけは窮屈で、男女の違いというものがありありと見て取れる。
臀部が大きくなっているためか、トランクスのゴム回りは少しきつく感じられる。ただ、内部はぶかぶかというより空虚で、外気がすうすうと入り込んでくることに、俺は妙な気恥ずかしさを覚えた。しばらく股間にぴっちり貼りつく女性物のショーツしか履いていなかったから、余計にそう感じるのだろう。
「こういうおかしな感覚が癖になって、気づけば男装が趣味になる……なんてこともあるのかも」
そんな冗談を口にする。
鏡に映った自分の姿は、ただお遊びに男物を着ているだけの、普通の女性にしか見えなかった。
入浴やら食事やらを済ませ、あっという間に時刻は夜の23時。
そろそろ布団に入ろうか。そう考えたタイミングで、スマホが音楽を鳴らした。
「……こんな時間に、着信?」
随分な時間に連絡を寄越す人間がいたものだ。
「……大島からだ」
なにか一大事だろうか。
とりあえず俺は、画面に表示されていた通話のポップアップを押した。
そして ──
その2 ↓
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