揺れる糸【第九章】夢見る写し鏡
🕑 Added 2020-02-29 14:03:33 +0000 UTC
「お邪魔しまーす」
綾が出かけて一時間も経たないうちに、油絵用のキャンパスと絵具を持った紗耶香が家に遊びに来た。
「ほんとにモデルになってくれるの?」
「紗耶香のためだったら、いいよ」
紗耶香は芸術家になることを目指しており、今は全国の中でも有名な美術大学に通っている。高校生の頃までは油絵の練習として由美がモデルになることが多かった。
久しぶりに再会できたことをきっかけに、以前のように、またモデルをやって欲しいとダメ元で聞いてみたところ、二つ返事で引き受けてくれた。
絵を描き始める前に、紗耶香に言わなければならないことがある。
「紗耶香、ちょっとお話があるんだけど」
由美の部屋で羽奈が寝ていて、できるだけそっとしてあげたいことを伝えた。複雑な事情を話して紗耶香まで巻き込んでしまわないために、知り合いの子供をしばらくの間預かっているとだけ話した。
「すごく人見知りな子だから、部屋を覗いたりするのもダメだよ」
「わかったわ、色々気になることあるけどね」
「ほんとにごめんね」
「でも、困ったときはちゃんと私に話すのよ」
「そ、それは…」
不意に由美の背中に手を回して、耳元に口を近づける。
「何かに巻き込まれるとしても頼ってくれた方が、私は嬉しいから」
「…わかった、その時はちゃんと話すね」
由美自身、紗耶香に泣きすがりたい気持ちでいっぱいになっていた。けれど、今は弱音を吐くわけにもいかない。
腕の中にすっぽりと納まる由美が脆く、儚げに感じる。心の奥底から湧き上がる表現できない感情が、由美の身を包み込んでいるようだ。
「さてと、そろそろ準備しないと」
紗耶香は三脚を取り出し、そこに無地のキャンパスを乗せた。その正面に椅子を移動する。
「この椅子に座ってみて」
「こう?」
「もう少し横向いて、そうそう」
由美は正面から見て左を向いた。足先と胴体を紗耶香の方に向けているので、かなりつらい態勢になっている。
「うーん、ちょっと違うかなぁ」
紗耶香は腕を組んでまじまじと観察する。
「肩を顔の向きに寄せたらどうかな」
足先はそのままで、上半身が左の方へねじる。
さっきよりも首の負担が和らいだ。
「うん、すごく良くなった」
紗耶香は無地のキャンパスの鉛筆を走らせる。
艶やかで、絹のような髪。少し湿った薄い唇。遠くの景色まで見通すような透き通った瞳。日の光を照らし返す透明感のある肌。そして、寂しく垂れる中身のない空の袖。
ハンデをものともしない生命力に、前進する力に、紗耶香は見とれていた。
時間を忘れてキャンパスに鉛筆を走らせる。高校の頃よりも、その姿は魅力的だった。
「由美、綺麗だよ」
「ふふっ、照れるなぁ」
「なんだか、懐かしいね」
「うん、私も同じこと思った」
紗耶香と由美は、夕焼けに染まる美術室を思い浮かべていた。
由美が油絵のモデルになったきっかけの光景。
西に沈む太陽が空や雲を茜色に染めている景色があまりにも幻想的で美しかった。由美が美術室の窓越しにその光景に見とれていると、その後ろ姿を紗耶香が見とれてしまい、油絵のモデルになってほしいと頼み込んだのだ。
「私、美術部の部員じゃなかったんだけどね」
「時々部室に来てモデルやってるから、ほかのみんなは部員だと思ってたみたいだけど」
顧問にすら部員だと勘違いされて、部費を徴収されそうになったこともある。
「私、うれしいんだ。また紗耶香のモデルになれて」
「いつだって、由美は綺麗だよ。だから…」
「うん、ありがと」
昼に差し掛かるころ、絵は仕上がった。
「由美、できたよー」
「あー、お疲れ様ー」
同じ態勢で固まった関節をほぐす。
「マッサージしてあげよっか」
「え、これくらい大丈夫だよ」
「いいから」
由美の後ろに回り込み、肩を軽く押す
「ほーら、ちょっと硬くなってる」
「んー、気持ちいいかも」
肩を揉んでいると、由美がぽつりとつぶやいた。
「触って、みる?」
「え」
「無くなってるとこ」
「…いいの?」
「ど、どうぞ」
恐る恐る、手のひらで由美の肩の断端に触れる。
「んっ」
断端はぷにぷにして柔らかかった。
無意識に腕を動かそうとしているのか、皮膚の奥で筋肉が収縮している感覚が伝わってくる。
「ど、どう?」
「ちょっと、不思議な感覚がする。でも、すごく触り心地いい」
触れる位置を少し下にずらすと、指先にさらに柔らかい感触があった。
「ひゃっ」
「ん、これは…」
「さ、紗耶香、胸触ってる」
いたずら心が湧いてくる。
手をそのまま前に滑らせると、こりこりしたシコリが触れた。
「んっ、紗耶香、そこはダメっ」
「このシコリ、だんだん大きくなってるような」
「んっはっ…もうっ」
由美は刺激から逃れようと身体をよじるが、振り払うことができない。
「ごめん、スイッチ入っちゃった」
「もう、紗耶香ったら…」